意味
人も物事も、本来はとらわれるべき実体を何も持っていない、という考えを表すことばです。「だから何も要らない」という禁欲の話ではなく、持っているつもりのもの、失うのが怖いものが、はじめから自分のものではなかった、という見方だと一般に説明されます。
出どころ
『六祖壇経(ろくそだんきょう)』に、中国禅の第六祖・慧能(えのう)が詠んだとされる偈(詩)の一句として見えます。兄弟子の神秀が「心は明鏡台のようなもの、常に磨いてちりをつけないように」と詠んだのに対し、慧能は「本来無一物、どこにちりがつくのか」と返した、という話です。ただし『壇経』は版本によって文言が異なり、この句は後の版で整えられたとする研究もあります。
今日の暮らしで
部屋を片づけるときや、肩書きが変わるとき。手放すことを「失う」と感じたら、このことばを思い出してみてください。もともと空の手だったところに、たまたま載っていただけ、と考えると、手が開きやすくなります。
参考にした資料
- 『六祖壇経』行由品(慧能の偈)
このページは禅の教義を解説するものではなく、ことばが一般にどう読まれているかを紹介するものです。解釈は宗派や指導者によって異なります。